らむねむら

日々の暮らしの中で気づいたことや感じたことを、自由に、気ままに綴っていきます。

丹波哲郎『丹波哲郎の死者の書』

年末年始のお休み中、長い間、積読状態にあった本書を読んでみました。丹波哲郎さんは2006年に亡くなられているので、若い方はご存じないかもしれませんね。あの豪放磊落なイメージを頭に浮かべながら、時にニヤリとしながら読み進めていきました。

本書は昭和62年第一刷とされています。当時は、目に見えない世界やスピリチュアルな話は今よりもずっとマイナーというか、世間からの風当たりも強かった(?)時代だと思いますが、今読んでも情報として色褪せていないように思いました。

以下、特に印象に残った部分を引用します。

…一般的に言って陽気な人間というのは、たくさんの仲間の霊に囲まれている人間である場合が多いということになる。だから、にぎやかなのである。」(P.41)

丹波さんご自身が陽気で屈託がないのは、大勢の仲間の霊たちに囲まれているからと考えていたようです。たくさんの霊に囲まれていると陽気な人間になるというのは初耳でしたが、実際はどうなんでしょうね。

「同じ霊能力を持つ者でも、それを商売にしているのと、そうでないのとでは、おのずから雲泥の差が出てくる。[中略]だんだん自分の霊能的な力で、周りのものが頼ってくるようになる。頼ってくるから、それにつれて知らず知らずのうちに職業化されてくるようになる。すると、間違いなく、その能力は落ちてくるようになるのである。」(P.90)

丹波さんによると、いつも無報酬に近い状態でリーディングを行い、生涯貧乏なままで終わったエドガー・ケーシーこそが真の霊能力者と言えるとのことです。実際のところ、霊能力を持つ者がそれを職業にすると能力が落ちるのかは私にはわかりませんし、なんらかの形で生活をしていかなければならないでしょうから、難しいところでしょうね。最近は豊かな暮らしの引き寄せを謳っているスピリチュアル業界の方も多いですが、そうした方々と霊能力というのはまた違うのかもしれません。

「そもそも理屈ではないのである。ただ、ひとつ言えることは、大昔においては、全部の人間が見えたのである。全部が全部、出口王仁三郎であったのである。」(P.116)

これは、きっとそうだったんだろうな~と思います。なんとなくですが。いつの時代かはわかりませんが、昔は誰もが様々な霊的能力を持ち、自在に使っていたのではないかと。それが、時代とともに退化していったのではないかと。でも、端からそんなことあるはずないと切り捨てるのではなく、そうであったと信じるなら、再びその能力を取り戻すことも可能なのかもしれません。

「言い換えるならば、他人を愛するということでもある。[中略]まず誰もが他人じゃないということを認識しなくてはならない。初めて人に会っても、他人じゃないんだ、自分そのものなんだ、ということに気が付かないといけない。」(P.223)

特定の宗教の信者でない人が、「他人を愛する」ことが大切という発想を持っていたことに感動しました。後段は正に「ワンネス」のことを言っているのではないでしょうか。丹波さんは特定の宗教を信じているというわけではないものの、「神」の有り難さのようなものを身をもって感じていたとのことです。私が知らないだけで、そのような認識を持つ人が他にも一定数いたのかもしれませんが、丹波さんが当時、宗教的な教えとしてではなく、「ワンネス」という意識を持っていたということは大きな驚きでした。

「私自身が『生命は永遠である』『あの世とはこういう形であるんだ』ということを感じ、おぼろ気ながらにも判りかけてきてからと、それ以前とをくらべてみると、その精神安定度は、比較にならないくらい違っている。」(P.237)

「朝も昼も夜もないのである。『永遠につながっている』のだから。朝は明るく、夜は暗いだけの話で、同じことなのだ。また朝が来たんじゃないのだ。永遠なのである。永遠に生きるのである。」(P.239)

今でこそ、この三次元の物質世界はイリュージョン、仮の世界で、非物質世界、死後の世界こそが真に生きる世界なんだろうな~と思うようにはなりましたが(それでもまだ確信する境地には至っていないかも。。)、恐らく今ほど情報がなかった時代に、肉体の死は終わりではなく、魂は永遠であるという境地に至っていた丹波哲郎さん、改めて素晴らしいと思いました。きっと霊界で更に明るく楽しく過ごされていることでしょう(*^-^*)

 

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